
久住方面から見たくじゅう連山
1.前方後円墳の広がり方
大分県竹田市久住町で、圃場整備の事前調査により発見された都野原田遺跡は、宮処野神社から500mの所に位置し、弥生時代後期から古墳時代前期に至る遺跡ある。大規模集落の他に集団墓や首長墓が発見され、出土品についても大量の鉄器や土器が出土している。
中でも朝鮮系土器も含まれるなど、他地域との交易拠点であったことがうかがえ、特に大量の鉄器の出土は、阿蘇外輪山を挟んで西側に位置し、これまで最大の鉄器が出土している熊本県北部地域との交流が考えられる。
そして今回注目されるのは、首長墓としての前方後方墳(3世紀中頃・26m)および前方後円墳(37m・4世紀始)の存在である。古墳は既に破壊されていたが、出土した土器などから最古級の可能性が高いことが分かり、大和王権成立時の状況を知る上で興味深い古墳であることが分かった。
ドアの鍵のような形をした前方後円墳は、首長墓として大和政権がこだわった墳墓形式で、そのため各地に残された前方後円墳の存在は、大和政権に服属したことを示す指標でもある。その前方後円墳の広がりは、これまで水面に小石を投げた際にできる波紋の様に、大和を中心に次第に地方に広がって行ったと考えられてきた。
ところが、今回発見された前方後方墳により、その築造が3世紀中頃まで遡り、奈良盆地における大和王権出現時の前方後円墳と同時期であり、今まで考えていた中央から地方への伝播といったものではないらしい。しかし、その中心が大和であったことは、箸墓を始めとした巨大古墳の存在から動かせないであろう。

2.初期大和政権はいつから九州に影響を及ぼしたか
調べてみると、このような大和王権創世記の古墳が各地で見つかっており、なかでも宮崎市吉村町の檍(あおき)1号墳(全長52m)がよく知られ、西都原古墳群でも81号墳が、纏向型と呼ばれる本格的な前方後円墳が出現する以前の、前方部がバチ型をした前方後円墳が見つかっている。このような南九州における前方後円墳の存在は、熊襲の領域とされる南九州においても、大和王権誕成立に関わっていた事を裏付けている。
これまでの、奈良県桜井市の纏向遺跡(2世紀末~4世紀初)における発掘調査の結果、遺跡内での水運による運河や最古級の複数の古墳が見つかっていたが、近年、新たに遺跡内で大型建物跡(3世紀中頃)が見つかり現在復元されている。ところが、この遺跡からは農具と行った一般庶民の生活跡が見られず、出土する土器も南九州から関東までの各地のものが出土することから、纏向遺跡はこの当時の経済や政治の中心としての都が置かれたと考えられる。
そして、各地域の豪族が纏向に集まり、政治連合の証としての前方後円墳の築造や、その際の墳形あるいは副葬品についても取り決めたと思われる。その結果、大和王権のトレードマークとも言える前方後円墳が、九州山地中央部の直入における、仏原千人塚古墳群をはじめ各地で一斉に出現し、広範囲な政治連合が形成されていたことを示している。
さらに奈良盆地に相次いで築造された、箸墓古墳を始めとした巨大古墳は、本格的な大和政権が誕生したことを物語り、近畿から瀬戸内海に面した丁瓢塚(播磨)や茶臼山(備中)そして丸井古墳(讃岐)、さらに九州の石塚山古墳(豊前)、赤塚古墳(宇佐)など、九州までの広範囲な政治連合が相互に結び付いたとき、それまでの部族集団から大和王権へと脱皮した。
google 購読新聞記事より

檍1号墳 西都原古墳群 81号墳
3.柏原郷と球覃郷の異なる状況
そこで、日本書紀や豊後風土記から当時の直入の状況についてについて探ってみると、これらの歴史書には七ツ森古墳群の存在する柏原郷と、今回新たに発見された古墳群(都野原田遺跡)のある球覃郷を中心に記されている。風土記に至ってはそのほとんどが柏原郷と球覃郷に費やされ、今回新たに発見された都野原田遺跡における二基の首長墓の存在により、文献上の記述と発掘調査の結果が一致し、この二カ所の郷が直入における中心的大集落であった事が分かったのである。
ところが、これらの二大集落についての記述が、柏原郷と球覃郷では全く異なっているのである。七ツ森古墳群のある柏原郷の菅生台地では、大和王権に反抗的な三人の土蜘蛛が、稲葉川や祢疑野で戦いを繰り広げ、最後は谷に身を投げるなど皇軍に打たれた事が日本書紀に記されている。そして菅生大地におけるこれらの地名は、今なお直入郡の西部に現存しているのである。(詳しくは景行大王熊襲征伐、13話 七ツ森古墳、14話 来田見邑 参照)
これに対し、東部に位置する球覃郷は、景行天皇との服属関係を示す記事が多く、宮処野神社の行宮が置かれた、との伝承はその最たるものである。あるいは球覃郷にある泉(所在不明)の水を天皇に献上しようとする風土記の記事、そして三宅郷の地名など、柏原郷の記述に比べると対照的である。このような大和王権との良好な関係が後に、この地の女性が嵯峨天皇の采女として入内するなど中世まで栄えたのであろう。
このことは、球覃郷が前方後方墳の存在から、早い段階において大和王権に帰属し、その支配体制に組み込まれたのに対し、柏原郷では北部九州の国々を中心とする、権威や秩序による旧態依然の支配体制にこだわり、大和王権を受け入れ様とはしなかった。
しかし、その後の七ツ森古墳群における前方後円墳の存在は、柏原郷が大和王権に服属したことを示しており、この間の出来事が日本書紀に記された、直入における皇軍と土蜘蛛と卑称で呼ばれた在地勢力との戦いであった。
このように同じ直入郡にあっても、大和王権に対する対応は様々であったが、これ以降大和王権を中心とした前方後円墳による連合政権が、列島全体を覆っていくことになる。このような状況は何も直入に限ったことではなく、九州や瀬戸内においても同様な状況であり、それに伴い、これまでの環濠集落が姿を消し、新たに戦いのない古墳時代がおとずれるのである。
筆者撮影 筆者撮影

宮処野神社(球覃郷) 七ツ森古墳群’(柏原郷)
4.菊池川流域における二つの交易ルート
地理的に見ると、直入の球覃郷や柏原郷はいずれも交通の要衝に位置し、球覃郷の場合、ここから西に阿蘇外輪山の北側を通り、菊池渓谷を抜けると、そこは熊本県北部の菊池平野である。この様に両地域は繋がっており盛んに往来があった。その結果、熊本県北部の遺跡から大量の鉄器の出土が見られるのは、このような菊池川流域に鉄を供給するための一大ルートが存在した事によるものである。
そして、これらの地域と球覃郷のような、前方後円墳による連合体としての勢力を結ぶルートが存在した。行橋(石塚山古墳)→久住町(仏原千人塚古墳群)→菊池(うてな遺跡)→大津(西弥護免遺跡)、と言った豊前から久住町に向かい、そここから菊池渓谷を経て熊本県北部の拠点集落を結ぶ、鉄器を巡る交易経路が存在し、これらの地域が初期大和王権にいち早く服属したと考えられる。
これに対し、破鏡によるネットワークの一端として、柏原郷の菅生台地から阿蘇カルデラ(阿蘇一の宮)に繋がるルートが存在し、阿蘇もまた鉄の出土量の多い遺跡が数多く存在する。そして阿蘇から西に位置する、拠点集落の方保田東原遺跡を中心とした、熊本県北部地域にこのルートを通じて鉄を供給していた。
この様な破鏡を媒体とする、菊池川流域のネットワークは、北部九州(須玖岡本遺跡)→大野川中流域(鉄器を多く出土する遺跡群)→菅生台地(石井入口・小園遺跡)→阿蘇(狩尾湯ノ口遺跡)→山鹿(方保田東原遺跡)へと繋がる、大和王権を中心とする連合体とは異なる、別の交易経路が存在した。
なお狩尾湯ノ口遺跡では、墳墓から2孔のある破鏡が玉類とともに出土し、ペンダントのように首にかけていたと考えられ、この様に穿孔や研磨が確認されるものを破鏡といい、これらが確認されないものは鏡片として扱う。
● 破鏡によるネットワークの拠点集落 ● 前方後円墳連合の拠点集落

5.有明海沿いの拠点集落を結ぶ交易ルート
ところで、大原遺跡(玉名市岱明町野口)から前漢鏡の破鏡(掲載写真参照)が出土しており、これと同型の前漢鏡が、北部九州の奴国(須玖岡本遺跡、春日市)、伊都国(三雲遺跡群、糸島市)、不弥国(立岩遺跡、飯塚市)からも出土している。この事から鉄資源の供給元であり、ネットワークの要である北部九州を中心とした権威とは、これらの国々、或いはこれらの連合体を言っているのであろう。
大原遺跡の破鏡の出土は、菅生台地から阿蘇を通じてのルートと異なった経路を経て伝わり、北部九州から、有明海沿いに面した拠点集落を経て南下し、大原遺跡に伝わったのである。当時、前漢鏡は入手困難であったため、大原遺跡がこれら北部九州のクニと交流があった事を示しており、一帯が有明海沿岸の拠点集落であったことが想定されるのである。
この様に、これまで見てきた2系統の鉄の入手経路とは異なるルートも存在し、熊本県北部が鉄の出土量において、最も多い地域であるのも肯けるのである。なお、大原遺跡からの出土物のなかには、阿蘇産鉄褐鉱を素材とする赤色顔料(ベンガラ)など、阿蘇との交流を示す遺物も含まれている。
また大原遺跡周辺には、破鏡が3点出土した船西遺跡や塚原遺跡など弥生時代の集落遺跡と隣接しており、この周辺一帯が弥生中期から古墳時代初頭にかけて多くの人々で賑わい、その人々の生活を支えていたのが稲作であった。これらの遺跡は、それぞれの地域の人々との交易を繋ぐ接点としての役目を持つまでに発展した集落でもあった。
そして大原遺跡をさらに有明海に面して南下すると、鞴(ふいご)や鋳型を始めとした、弥生時代の青銅器鋳造関連遺物がまとまって出土した、旧白川河口に位置する白藤遺跡・八ノ坪遺跡(熊本市西区)一帯に繋がっていたと考えられる。
熊本県北部地域で出土した破鏡 (個人用スクラップ)
大原遺跡(破鏡) 狩尾湯ノ口遺跡(阿蘇市)
6.熊本県北部地域の鉄を巡る状況
そして菊池川流域における、これらの弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡から、鉄器や銅製品が多く出土することから、他の白川流域や緑川流域に比べ菊池川流域の優位性を示している。これらの熊本県北部における拠点集落は、いずれも菊池川水系に属するが、大津町の西弥護免遺跡だけは白川上流部に当たる。
ところで、菊池川流域の拠点集落の中には六カ所(諏訪原遺跡・桜町遺跡・蒲生上の原遺跡・津袋大塚遺跡.うてな遺跡・八反田遺跡)の環濠集落が存在し、 これらは一般的な集落よりもはるかに大きく、およそ等間隔に立地していることから、これらの拠点集落は菊池川がもたらす豊かな水を利用した、稲作や地域間の交易を通じて発展していった事が窺える。
そして、これらの環濠が意味するものは、大和王権(前方後円墳)と破鏡(北部九州の旧勢力)と言った立脚する政治的背景の違いにより、互いの集落が緊張状態にあった事を示している。なお方保田東原遺跡は、防御施設としての巨大な溝で有ることから環濠集落に含められていない。
また時代は異なるが『肥後国誌』に、たたら製鉄に伴う『炭焼きの小五郎(後の疋野長者)伝説』が記載されている。この炭焼きの小五郎とは、菊池川流域に君臨した日置氏のことで、この伝説が遺されている地域の調査をされたところ、似たような伝説が玉名から帯状に豊後地方の直入辺りまで、広範囲にひろがり、これらの地域の間には、鉄に伴う文化的交流が有ったと考えられている。
筆者撮影 筆者撮影

疋野長者墓碑(疋野神社) 方保田東原遺跡(案内板)
7.熊本県北部の鉄器に関する代表的遺跡
そこで、これらの地域について具体的に見ていくと、いずれも弥生時代後期から古墳時代前期にかけて繁栄した、菊池川流域の代表的な拠点集落遺跡である。なかでも方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡(山鹿市)は、その中で最も大きな遺跡であり、遺跡のある台地の南側を菊池川が流れ、吉野ヶ里遺跡に匹敵する広さで、菊池川流域全体に力を及ぼすような集団が住んでいたとかんがえられている。
出土品として全国で唯一といわれる石包丁形鉄器や最大級の巴型銅器が出土しており、この遺跡で注目すべきは、遺跡を南北に横切る深さ1.2m、幅6から7mの巨大な溝が確認されている。この溝は台地を区画して敵の攻撃を防ぐ役割があったと考えられている。(掲載写真の案内板参照)
そして、この遺跡から東南方向に直線距離で18㎞離れた、阿蘇外輪山西麓の台地に同時代の西弥護免(にしやごめん)遺跡(菊池郡大津町)が存在する。この遺跡からは大量の鉄器が出土し、これまでの鉄の出土量としては最大規模であることから、この地域における主導的村落と考えられている。ところが、この遺跡の多くは焼失家屋であり弥生終末期には途絶えてしまう。
そこで疑問に思うのが、当時貴重であった鏡や大量の鉄を、なぜ放置して他に移動しなければならなかったのか。遺跡の多くが焼失家屋であることを考えると、他集団からの襲撃といった緊急事態が発生した事が想定される。そう考えると、方保田東原遺跡の巨大な溝は、東からの攻撃に対応したものであり、方保田東原遺跡の東側に位置する球覃郷からの移動経路(菊池渓谷)を意識した防衛施設である事が分かる。
菊池川流域の、これらの遺跡は共に大規模な環濠集落であり、集落を環濠で取り囲むのは、日本史上において弥生時代のこの時代と、戦国時代の二回だけである。特に西弥護免遺跡に至っては、住居群や墳墓群を取り囲む環濠の総延長が1㎞と、守りを固めた戦いの多い時代であった事を示している。そのため遺跡内に残された鉄器は戦いにより放置された公算が大きく、単に鉄の出土量だけで、その遺跡を評価しても良いものか疑問が残る。
話は変わるが、かつて西弥護免遺跡で出土した鉄について、大津町の方に問い合わせたところ、『鉄器は現在ここにはない、また何処にあるかも分からないし、誰が持っているかも分からない』。との、余りにも他人事のような返事であった事を今でも覚えているが、この大量の鉄器類はその後どのようになったのであろうか。
個人スクラップ 筆者撮影
西弥護免遺跡出土品 方保田東原遺跡
8.破鏡と前方後円墳
この時期、各地の豪族が考えていたことは、農具として、あるいは武器としての鉄の取得であった。鉄製農具は生産性を飛躍的に高め、鉄製武器は殺傷能力を増し周辺諸国から優位に立つことができ、まさに重要な戦略的物資であった。
しかしこのような鉄は列島内では生産できず、朝鮮半島から移入しており、そのため半島と地理的にも歴史的にも関係の深い、北部九州を介さなければ鉄を入手することはできなかった。
それには王墓の存在した、伊都国の平原遺跡(福岡県糸島市有田)や北部九州の奴国の須玖岡本遺跡の王墓(福岡県春日市岡本)と言った地域を中心とする、権威や秩序によるネットワークの構成員でなければならず、その構成員としての証が銅鏡を適当な大きさに割り、割れた面を磨いた破鏡であった。
これに対し、新たに北部九州を介さず半島から直接入手するための地域連合が成立し、その証として各地に前方後円墳が築かれた。そのため両者は鉄を巡って、相反する政治的集団であり、破鏡による地域は反大和であり反前方後円墳グループであった。そして両者は近接して存在し、互いに環濠集落を出現させるほどの緊張状態にあった。
なお、破鏡は2014年1月現在で北部九州を中心に、そこから離れるに従い出土も少なくなるが全国で211点確認され、鏡片も539点が出土している。従って両者の合計は750点を数える。(破鏡と四方転びの箱、髙橋敏 より)
青銅鏡を破壊した破片である破鏡は、一般的に一集落から一個の出土であるが、菅生台地の石井入り口遺跡や胃園遺跡からは三個も出土し、いかに大集落であったかが窺える。ところが、弥生時代末期から古墳時代初頭になると、この破鏡が集落から破棄された状態で出土しているのである。
この事は、北部九州を中心とする権威や秩序が崩壊したことを意味し、新たに鉄の移入が北部九州を介さず直接、大和を中心に前方後円墳が見られる地域に分配されるようになった。七ツ森古墳群においても、B、C号墳からは完形鏡が6面副葬されており、古墳時代初頭(弥生時代末期)を境に鏡に対する扱いが大きく変わった事を示している。
この様な鉄を巡る動きも時代と伴に変化し、なかでも直入県から分かることは、県といった狭い地域にも関わらず、従来の北部九州を中心とした旧勢力(菅生大地)と、新たな前方後円墳(久住町)による初期大和政権側の勢力が存在した。この状態は熊本県北部地域を始めとした各地でも同様であり、両者の何れかに属する拠点集落がモザイク状に存在した。
この様な状況も、地域内に前方後円墳が築かれていく古墳時代に入ると、北部九州の旧勢力は次第に勢力を失い、それに伴って戦いも収まり鉄の流れも新たに連合政権側に行き渡るようになった。
石塚山古墳(苅田町) 破鏡(石塚山古墳出土)
Google 筆者撮影
あとがき
鉄を取得するには、それまで北部九州の伊都国をなどを中心とする、権威や秩序によるネットワークの構成員でなければならず、その証が破鏡であった。しかし、石塚古墳の資料館を訪れた際に、展示品の中に石塚古墳出土と書かれた破鏡が展示されていたのである。
石塚山古墳は、この地域で最も巨大であり、墳形も大和の前方後円墳と見まごう様な古墳から破鏡が出土しているのである。このことは、今まで考えてきた破鏡と前方後円墳とでは、相反する政治的立ち位置にあり、このような前方後円墳から破鏡が出土することはないと考えていた。
ところが石塚山古墳から、実際に出土した破鏡(鏡片)を目にしたとき、これまでのネットワーク説では、どうしても説明できない状況に出くわしたのである。破鏡と鏡片の違いである研磨が見られないものの、完鏡に手を加えて小さく加工したものである。従って破鏡の持つ多様性を考えたとき見逃すわけにはいかないであろう。そこで北部九州の某博物館に、この件について電話で伺ってみることにした。
学芸員の方の説明によると、『破鏡については定説がなく』、一件々その状況に応じて説明していかなければならない。例えば、破鏡に穴が開けられ副葬品として出てきた場合、それが普段どおりのまま首に掛けて埋葬されたのか、それとも葬儀用に仕立てて埋葬したのか、それぞれに背景が有り一つ々説明する必要がある。
また当時、破鏡は貴重なものであったことから、列島内で割られたもの以外にも、破片として列島に入ってきたものも存在し、それぞれ異なったルーツを持つことから、一概に列島内だけの考察だけでは完結しない場合もある。また地域によっても破鏡に対する対応が異なるなど色々ご教授いただいた。
そこで、改めて破鏡について考えてみると、割符以外にアクセサリーとして身に付けることにより、自身を守る事ができると考えていた。また古墳に副葬品として収められているのを見ると、当時の人々が破鏡に対する死生観をどの様に考えていたのか想像すると、現在では考えも及ばない様な背景を持っており奥の深い話である。
次に破鏡の製作方法であるが、水道の蛇口や嘗て米を炊くときに用いていた羽釜などの鋳物製品については、もろく金槌でたたけば簡単に砕くことができた。しかし、銅・錫・鉛の合金(青銅)で製作された銅鏡となるとそう簡単にはいかず、経験上知っているように、銅は叩いても変形するが割れる様なことはない。
このような銅鏡を、当時どの様にして加工し、破鏡を得ていたのであろうか。これについて若い頃、鋳物工場の職人さんとの話の中で、鋳物は簡単に割れるが銅はそうはいかず、高温に熱してハンマーで叩けば砕くことができると話していたのを思い出した。従って当時も銅鏡を直接間火にかざし、高温に熱した後に金槌で適当な大きさに割り、それを破鏡としていたと考えられる。
しかし現在の様に、加熱するためのガスバーナーや加工する工具もなかった時代、身につけたり、持ち運びができる大きさに分割するには、それなりの技術を必要としたのであろう。このように考えていくと、破鏡の製作方法もはっきりせず、またその使用方法も不明な点が多く、今後研究を進めていく必要があり、その成果が明らかになることが待たれる。